↑https://www.britishmuseum.org/api/_image-download?id=286068001
名所 江戸百景 浅草田圃 酉の町詣
めいしょえどひゃっけい あさくさたんぼ とりのまちもうで
安政4年(1857)/木版多色刷 大判錦絵
36.2×24.4cm
↑https://torinoichi.jp/about/ukiyoe/
English translation ↓
https://www.nekoyamanga.com/entry/2024/02/19/About_Hiroshige’s_cat
歌川広重「名所 江戸百景・浅草田圃 酉の町詣」は何を表現しているのか
浅草酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社のお祭。開運や商売繁盛を願い、縁起物である熊手を買う、今でも人気の東京のお祭です。
浮世絵で見る浅草酉の市 | 浅草・酉の市2024(令和6年の酉の市は5日(火)、17日(日)、29日(金)
この絵について
夕空には、みんなで仲良くねぐらに帰る雁の群れ。
田圃道には浅草酉の市(とりのいち)に向かう人たち。
お母さんと手を繋ぐ子供の影もちらほら見える。
若い遊女も、おかあさん、弟とお祭り行きたいはず。
だが遊女は、吉原から出ることが許されない。
遊女も猫と同じように、外の風景を眺めているのだろう。
猫の後ろの屏風に隠れて遊女がいる。畳の上にお懐紙が置かれているから、それがわかる。
畳の上の熊手のかんざしは、お客が遊女のためにお土産に買ってきたのだろう。
富士山すら、真ん中から真っ二つに取り消し線を引かれたように、山の頂上も無情にも隠されている。
壁には、おそらくこれはスズメの絵が描かれている。江戸中の事情に通じていて、それをしゃべって回る、粋な江戸雀、遊郭の客のことを意味している。空の鳥と、かごの中の鳥を対比しているのではないだろうか。余談だが、かごめかごめ、というわらべうたがあるが、あれは「遊女はいつ大富豪に身請けしてもらえるかな」という意味であろう。怖い歌と現代の子供達が騒ぐのも、昔の小さな女の子の恨みを歌のたたずまいから感じ取るからだろう。
外は自由で幸せな子供や鳥たち、遊女はこれから危険で嫌な仕事。
この絵は、広重さんなりの可哀想な女の子たちへの思いやり、愛すべき小さき者たちを虐げる世に対する疑問を投げかける、最後のメッセージなのではないだろうか。
歌川広重、亡くなる前年の作品である。
彼女たちは、自分の意思で働いているのではなく、10才前後で、貧しい農村から、親に人身売買業者に売られてきた、身寄りのない女の子たちでした。ヘアメイク代、着物代、食事代、薬代、布団のクリーニング代など、全てありとあらゆるものを彼女たちが理不尽に負担させられた。大金を借金させられ、27歳で辞めさせてもらえるまで、自由に辞めることもできません、どこかに出かけることもできませんでした。辞める時は、大富豪に大金を払って出してもらうか、死ぬかの2択でした。近くの浄閑寺には、遊女の墓があり、20000人の遊女が入っています。平均年齢は、21才です。「浄閑」という漢字の意味は、”cleanse, holiday”です。……。
(詳しくは福田和子さんのお話をお聞きください。https://youtu.be/UU-IL78wSh4?si=teqAXiUmnLJTuj3Y )
私はこの絵が大学生の時に好きで、机の上に飾っていました。最初はただ、猫がかわいいと思いましたが、見てるうちに、どこかメッセージ性が強いように感じ、作者は何を伝えようとしているのか、眺めながら考えていました。やはりこれは、広重さんの遊郭に対する疑問、かわいそうな若い遊女に対する思いやりと、そんな可哀想な状況を世の中に発信したい気持ちが表されているように感じました。
大学生の頃、私はビートルズもよく聞いていて、ポール・マッカートニーのブラックバードという曲が好きでした。Black Bird、英国英語がわかる人ならピンとくる、「黒人の女性」と言う意味です。1968年、まだまだ売れっ子クリエイターとして、いろいろなしがらみがある中で、ぼやかして言わなければならない時代だったと思います。なんだお前と咎められたら、「これはただの黒い鳥の歌だよ」とはぐらかすことができますから。
https://youtu.be/4P6s2cMwVfY?si=8P7ttqYYLt8aEH2u
広重さんも同じように、「お茶屋」さん(遊郭=売春宿)に角が立たないように、白い猫で遊女を表したのではないかと思います。そのまま描くと、遊郭の店主が怒りますから。「かわいそうになぁ。飢饉が起こらなければ、幕府の厳しい年貢がなければ、この子も、親や弟と一緒にお祭りに行って、おうちに帰れるのにな。おじちゃんは、その気持ちをわかっているよ。」という意味だと思います。
大吉原展のXでは、表面的に、あの絵の猫を使って浮かれた宣伝を打とうとしていました。あの展覧会の関係者は、あの絵の意味を理解していないのであろうか。日本のトップの国立の芸術大学で、なんと浅い大学だろう、なんとアートのレベルの低い国だろう、と外国の人に思われたら嫌だと思い、ただ悲しいと言うよりも、むしろ憤りを感じたため、ワタシはペンを執りました。
以上です。