美しい そして哀しい
末広稲荷は、小樽の有名な侠客(きょうかく)だった末広こと鈴木吉五郎が、明治17年に京都伏見稲荷から分霊し祭ったもの
吉五郎は、芝居小屋の末広座を興したほか、私設消防組も発足させました。
昔、入船かいわいは料亭や見番(芸妓(げいぎ))の手配をするところ)などが軒を並べ、花街としてにぎわっていました。末広稲荷も花柳界に働く人たちの信仰を広く集めていました。
鈴木吉五郎の亡くなった後は、人力車屋を営んでいた大畑五郎次が、末広稲荷の世話を引き継ぎました。
要は吉原遊郭みたいなところだったのなと思って調べたらこの記事興味深かったす。↓
明治14年(1881)5月21日に、現在の信香町一帯で旧11カ町が焼失するほどの大火が発生し、金曇町の遊廓も丸焼けとなった。当時の俗謡では、「かわい金曇町何にして焼けた 寝てて金取った其の罪で 三十三軒ばらっと焼けた」(小寺1974:132)と歌われた。この明治14年の大火を契機として、遊廓は住ノ江町に移転し、明治16年(1883)に移転は完了し、以前にも優る歓楽街ができあがった。
明治29年(1896)4月27日夜、住ノ江遊廓からの出火が原因で、旧小樽の7ヶ町を全焼させてしまうほどの大火が発生したのを機に、13年間もの間栄華を極めた住ノ江遊廓は、天狗山山麓の、人里離れた山奥の入舟町の奥、松ヶ枝町へと移されることになる。明治40年に誕生した梅ヶ枝町の遊廓
https://shimamukwansei.hatenablog.com/entry/20100205/1265356430
このお稲荷さんの横にある↓この古いレンガの橋脚、写真は撮らなかったが、味がありすぎてしばらく眺めていた。 この橋と道の上をこれまで無数の喜怒哀楽が通り過ぎたのであるなあ。
海側の橋脚は、明治43年5月に手宮線が複線化された時に改築されたものです。山側の橋脚は、明治38年に現在の小樽駅と南小樽駅間の線路が開通したときに新たに造られたものです。
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