にしんごてん=きひんかん=旧青山別邸は、高校生の時初めて訪れて、そのあまりの竜宮城っぷりというか豪華絢爛さに、唖然とした。以来訪れていないのだが、また訪れてみたくなった。なので、アクセスを調べた。
JR小樽駅から中央バス「小樽水族館」行きに乗車約20分。「祝津3丁目」で下車徒歩5分。
祝津(しゅくづ)3丁目〜小樽駅前のバス時刻表↓
中央バス小樽市内 路線図↓
港から観光船(約20分間、千円)でも行ける。
https://otaru-kankousen.jp/aobato/
内部の説明文↓
http://www.otaru-kihinkan.jp/aoyama_about/aoyama_highlights/
ランチは貴賓館内のレストランの他に、
http://www.otaru-kihinkan.jp/restaurant/
マリーナ食堂
「うにカレー」というパワーワード↓
https://s.tabelog.com/hokkaido/A0106/A010601/1029337/dtlmenu/?photo=1
民宿 青塚食堂
https://s.tabelog.com/hokkaido/A0106/A010601/1001467/
などがおすすめだそうです。(小樽の観光振興室さんによると)
青山留吉は天保七年(1836)羽後国(山形県)飽海郡比子村字青塚に嘉左衛門の第六子として生まれた。その家漁業を営むも甚だ貧し。日々漁った魚を酒田に販いで、僅かに口を糊す。安政六年(1859)正月、蝦夷地に渡り、高島郡祝津村寺田九兵衛の傭夫(※ようふ。雇われた男)となる。居ること七ケ月斯業(※しぎょう。この事業)の利益大なるを見、一旦帰郷し、一隻の漁舟と米塩の資を借り、翌年再び祝津に来り、独立して漁業を営む。自ら魚を小樽に運んで販売し、冬は山に入って樵夫(※しょうふ。きこり)となるなどつぶさに苦難に耐えた。慶應四年(1868)他の一名と共同で「漁場地」を借用し、翌年之を二分して二百坪ばかりを所有して定住の根拠とした。
そして明治期の積丹半島を中心に漁場を次々と拡大し、青山家はやがて漁場15ヶ統余り、漁船130隻、使用人300人余を擁する道内有数の漁業家に成長したのです。
漁業一筋48年、明治41年(1908)73歳の時に、留吉は北海道の漁場を養子の政吉に譲り、青塚に隠居しました。https://www.town.yuza.yamagata.jp/culture/heritage/7415d8201.html
↑ひょえー。オタルン・ドリーム…。アメリカンじゃなくて。
通常、ニシン漁は、ニシンの群来を待ち受け、沖に建網(たてあみ)を張ります。網の一組を「網一ヵ統」と呼び、網一ヵ統ごとに漁夫を2、30人ほど必要とします。 ニシン漁は、1年間のうちたった4ヶ月に限られます。そのため、ニシン漁夫は2月頃に東北からやって来て、漁期の終わる6月頃再度東北に引き上げていくやり方でした。
しかし留吉はここで違うやり方をとります。1年間のうち4ヶ月のみ東北からのニシン漁夫を迎えるに限らず、彼らの生活を支えるため、年間を通して雇いました。漁夫らのために農地を買い上げ、自給自足できるようにしたのです。4ヶ月のニシン漁を終えると、残りの8ヶ月は農作業や植林、造園に携わる仕組みが出来上がりました。
つまり、経験のある漁夫を雇い続けることが出来るのです。留吉は、他の網元に比べ、経験のある漁夫を雇うことで大量のニシンをとることができ、成功しました。
↑なるほどなぁぁ
青山本邸は山形の酒田の近くにあるらしいです↓写真満載で面白かったです